2020年の年の瀬、父が亡くなりました。
2021年の年賀状を書き終えて、次の日に緊急入院となりました。
それからだんだんと弱っていき、入院してから数日後の夕方、母から連絡が入り病院へと向かわなきゃならないのですが、当時はコロナ真っ只中。
病院への見舞いは原則禁止で、緊急の場合でも看守室で用件を伝えて許可を得なくてはなりません。
18歳未満は病棟の方にはどんな理由があれ入れませんでした。
今思えば、そんなお別れの時は入れたのかもしれませんが、「そんな場面見せたらショックだろう」という元夫の方針で病院には連れていきませんでした。
母から連絡をもらってから1時間以上は経ってましたが、父は待っていてくれてたかのように私が部屋に到着してから間も無くして息を引き取りました。
それがだいたい19時くらいで、それから葬儀の打ち合わせだとか色々準備や親戚に連絡など取って0時前にようやく一息つけました。
そして火葬の日。
いよいよ父の体も無くなり本当のお別れの時です。
母やおばさん(父のお姉さん)、長女や元夫まで泣いて父とのお別れを悲しんでました。
そんな中私は悲しいというより寂しい気持ちのほうが強くて、「ああ、今まで頑張ってきたね。お疲れ様。」みたいな気持ちでいて、不思議と涙は出なかったんですね。
それを見てたおばさんは、葬式後父の話になると「葬式のとき〇〇(わたしの名前)は泣いてなかった。」と責めるように言ってくるようになりました。
元夫も喧嘩のとき「俺は泣いたけど、お前は自分の父親の葬式なのに泣いてなかった。」と私を責めました。
なにか問題ですか?
身内の葬式では泣かなくちゃ行けない決まりでもあるのでしょうか?
父はどちらかというと子供と一緒に遊ぶタイプではなく、休日にはいつも自分の趣味の競馬や競輪をしていたような人です。
いつも怒ったような顔と声で、そんな父を嫌っていた時期もあります。
そして長年病と闘ってきました。
晩年は入退院を繰り返し、死期が近いというのもなんとなく感じていました。
覚悟ができていたからなのか、父が苦手だったからなのか、葬式のときは特に涙が出るというような感情にはなりませんでした。
それだけのことなのに、泣いていないだけで責められるとは思いませんでした。
私はどちらかというと涙もろい方で、映画やドラマ、ドキュメンタリーを観て結構泣いてしまいます。
子供を産んでからは特に涙もろくなりました。
周りの人が泣いてるとつられて涙が出てきます。
それでも、父の葬儀では泣きたい気持ちにはならなかったんですよね。
長年病と闘ってきたので、「お疲れ様、ゆっくり休んでね。」といったところでしょうか。
父が亡くなってから数日は忙しくて、悲しむ暇がなかったように思います。特に母は。
葬儀が終わってからも父は顔が広かったので、住まいが遠くて葬儀に来れなかった人たちが弔問に訪れてきたり、父の荷物の後片付けをしたり、何かとやることはいっぱいありました。
あれから3年、毎朝仏壇を拝むたび父の遺影に話しかけます。(心のなかで)
こうゆうとき父ならなんて言うか、怒るんだろうな〜なんて考えるときもあります。
家族で他愛もない話をして父の話題になることもあります。
みんな父のこと忘れていないのです。
いつも心のなかで想っている、それでいいですよね。
葬式で泣いてなくても、それがどうした、悲しいのはみんなと同じ気持ちです。
人はいつか死にます。
二度と会えなくなります。
それが遅いか早いか、突然のお別れになってしまうこともあります。
会えなくなるのは寂しいですが、「死」もその人の新たな旅立ちなのではないでしょうか?
その人がいなくなったことよりも、その人との思い出を味わう。
その人はずっと自分のこころの中にいるのですから、たまに話しかける。
人が亡くなるということは悲しい、涙することではないと私は考えます。
ただし、その人には成し遂げたいことがあってそれに向かって努力し頑張っていたのに無差別殺人に巻き込まれて殺されてしまった、となれば話は別です。
どんなに悔しいだろう、もっとやりたいことがあったのに。
その人の気持ちに共感して私は泣くでしょう。
今回は私が思う「死」について考えてみました。